佃島のおこり




1582年(天正10年6月2日)明智光秀が本能寺に織田信長を襲った時、信長の盟友家康の一行はわずかな手勢で堺にいた。

光秀がほうっておくわけがないと察知した家康は急ぎ三河への脱出行動を開始した。三河とは逆の方向、大阪、兵庫の海辺へと急いだ。

神崎川にさしかかった時、船がなく困っていた一行に素早く手持船や漁船を集めてきたのが摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の漁民であった。

献身的な働きは家康にとって生涯忘れることのできないものとなり、それ以来、家康と佃村の漁民とのつながりが深くなった。

慶長8年(1603年)家康が江戸幕府を開いた時、
佃村の漁民33人を江戸に呼び、石川島に近い島を
居住地として与え、故郷の佃村に因み「佃島」と
名付けた。
 







彼らはこの地で白魚などの漁をしながら江戸城内の
台所をまかなうことで漁業権を与えられた。離れ
小島であるために時化(シケ)どきにお菜に事欠き
また漁期には腐らない副食物が必要なところから
湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食を
作ることを考えた。

其後、千葉より醤油が渡り塩煮より醤油煮にかわり
佃島で作られたので佃煮と命名し江戸市中に売り出
したのです。